■結婚してくだちゃい!!




滝のように脂汗を垂らしながら
小学3年生の少年は焦点の定まらない瞳で時計の針を見つめ続けてたのだ。



楽しい時間はあっという間に過ぎるのに
苦痛の時間はまるでスローモーションだ。

こんな時に快活な伊藤くんなら手を挙げてハッキリとこう言うだろう。


「先生、トイレ行っていいですか!?」


しかし小心者で目立つことを極端に嫌う少年は
両足を組んでモジモジと左右に体を揺らすばかりだ。
よしんば言えたとしても
きっとこれから1年間“学校でウンコをした男”の悪名を馳せることになるのは間違いない。


少年は黒板の前に立つ藤田先生を見つめた。
藤田先生は30歳過ぎのふっくらとした母性的な女性の教師だ。
日本人なのに色素の薄い澄んだ瞳と彫りの深い目鼻立ちをしている。
外見も雰囲気もやさしさがにじみ出ていて、生徒からも人気が高かった。

ボクは藤田先生にただひたすら目で哀願した。


“藤田先生、バレないようにボクをここから連れだして!!”


しばらくするとボクの願いが通じたのか
藤田先生はボクの異変に気づいたのか声をかけてくれた。

「たけしくん、どしたん? 気分でも悪いんかね?」

教室の生徒全員が一斉にボクを見る。
ボクはうつむいて誰にも聞こえないほど小さい声でつぶやいた。

「・・・いえ・・・あの・・ボク・・・えぇ・・・あの・・」

先生はボクの席の隣まで来てボクの顔をのぞき込んだ。

「おなか痛いん? 保健室行くかね?」

先生は気を利かせて“保健室”と言った。
ボクはコクンと力なくうなづいた。
ボクは廊下を小股で小走りしながら藤田先生に連れられてトイレに向かった。

もうちょっとじゃけん、出られんよ!!(出ないでネ)

トイレのドアを開け大便器の小部屋の前に来ると
ボクの体は安心したのか一瞬力が抜けた。


♪プリプリプリ♪


破滅の音がした。

ボクは泣きそうな顔で先生の顔を見上げた。


「・・・間にあわんかったん?」


ボクはまた力なくうなづいた。

「タオル持ってきたげるけん待っとるんよ?」

先生はそう言うとどこかからかタオルを持って戻ってきた。
ボクの半ズボンとパンツを脱がせると
汚れたお尻をきれいに拭いてくれた。
ボクは恥ずかしさでシクシクと泣きながら藤田先生に謝った。


「びっく・・・ごぉんめんなさぁぁぁぁぁい・・・・ぶしっ・・・ずびっっ・・・」



藤田先生はボクの汚物を全然嫌な顔もせずに始末してくれた。
ボクは恥ずかしさと情けなさで一杯だった。
でもその時、ボクに生まれて初めてのある感情が芽生えた。
次の日、ボクは授業が終わった時を見計らって藤田先生の側に行った。

「・・・・先生?」

「たけしくん、どしたん?」

あいかわらずハキハキしないボクは
なかなか言い出せないまましばらくモジモジしていたが、
ついに意を決して小さな声で言った。


「け・・・ボクと結婚してくだちゃい・・・」



ボクの恥ずかしいところを見られてしまったのだ。
もう結婚するしかない。
藤田先生となら結婚してもイイ!!
恋は美しいと感じた時に始まり、
愛は恥ずかしいものを見せ合った時に始まるのサ!!(見られただけだけど)


と、当時のボクは考える余裕などなかったはずだが
とにかく先生に言った。
先生はきょとんとした顔でボクを一瞬見つめ、
やさしく微笑んで言った。


「ありがとう。先生みたいなおばさんでええんかね?」



ボクはあわてて首を縦に振った。
勢いよく何度も何度も。
それから先生はボクの耳元に顔を近づけるとこう言った。


「じゃけんど、ごめんの。先生違う人のお嫁さんにならないかんの」


ボクは結婚の意味もはっきりと分からないものの
たぶん“言うのが遅かったからボクのお嫁さんにできなかったのだ”と思った。

「・・・・そうなん・・・?」

ボクはあきらめの早い少年だったのであっさりと引き下がった。

数ヶ月後に藤田先生のお腹はなぜか風船みたいに大きくなっていた。
ある日、教頭先生が藤田先生と教室に入ってきてこう言った。


「先生は赤ちゃんが生まれるから今月でお別れになります」



教室の生徒全員が「え〜〜〜?」と不服そうに声を上げた。泣きだす生徒もいる。


「みんなは元気な赤ちゃんが生まれるようにお祈りするんですよ。

 先生を困らせないようにいい子でがんばりましょうね」


しばらくはみんな悲しんだり不満を叫んだりしたものの
それで先生が幸せになるならとみんなしょうがなく納得した。
先生は幸せそうな顔で微笑んでいた。
小学生のボクは“赤ちゃんがどうやったら生まれるのか”という意味はわからなかったが
なんとなく感覚的に、大事なものが手に入らない喪失感を感た。



ボクの初恋でした。

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